2017年9月30日土曜日

9.29 秋の夜長の独り言。

なんだかなー

まあじぶんも社会に適合できているか否かでいえば,「否」であるかもしれないが。

しかし,

毎日毎日満員列車に揺られることと,

生活は危うくとも嫌なことは決してやらないこと。

どっちもおかしいといえばおかしいし,

正しいといえば正しいし,

強いといえば強いし,

弱いといえば弱い。

結局は,自分で選んだことが,正しく強い。

それだけ。

そして,

起きてることはぜんぶ自分で選んでいる。

選ぶことから逃げず,選ぶことをごまかさず。

軽く明るく,ゆこう。

とりあえず,明日はお休み。ダッ!

2017年9月29日金曜日

9.28 もうすぐ9月が、

色々あっという間。

今年も残すところ三ヶ月。

振り返るにはまだ早く,でもそんなのんびりもしてられない。

やれることをやっていきますぞー。

2017年9月28日木曜日

2017年9月27日水曜日

9.26 ティースプーン一杯のアレ。

生まれて初めて生理痛になる。

痛い。座ってらんない。かといって寝ててもツライ。というか,これまでの腹痛と痛さの種類がちがう。

子宮の筋肉痛って感じ。

器官そのものが痛いって感じ。

正直生理痛なめてた。

生理痛ツライ~とのたまう女子たちに,タイヘンダネ~と返しつつ,つまりは腹が痛いってことだろ?とたかをくくっておりました。明日は我が身だったとは。

世の中の生理痛を知らないすべての人へ。

生理痛はツライです。
きっとあなたが思っている以上に。

ちなみに,30代になってから,つまり生理が始まってだいぶ経ってから,これまでなかった生理痛があった場合は,病院で診てもらった方がよいとのこと。

子宮筋腫や子宮内膜症の恐れがあるらしいです。

わたしのは,甘いものの食べ過ぎと自律神経の乱れだと思いたい(それもどうにかしろって話だが)。

イロイロタイヘンダヨー。

来月はいたくなりませんようにどうか……

ところで生涯分泌される女性ホルモンはティースプーン一杯程らしい。わたしはあとどんぐらい残ってんのかなあ。

2017年9月26日火曜日

9.25 猫と手練手管。

近所に野良猫が多い。

彼らとの距離を縮めたくてならないが,世知辛い世の中をサヴァイヴしているだけあって,彼らは警戒心が強く,これがなかなか難しい。

食べ物を持ち出すのは負けな気がする。

正々堂々と勝負したい。

いまロックオンしているのは,母黒猫とキジトラ兄妹だ。

母黒猫の名はみずなさん,キジトラ兄はきゃべつ氏,妹はパクチーちゃんと言う。

母黒猫は,恐らく自身も相当若い。
身体も小さいし,顔つきも幼い。
もちろん子であるキジトラ兄妹の方が,仔猫然とした顔をしているが,サイズはほぼ変わらない。

このヤンママ(死語だな)一家とお近づきになるべく,いま夜な夜ながんばっているところなのだ。

今日はパクチーちゃんとの距離が,少し縮まった気がする。

あと少しでお触りに至れそうな気がするが,性急に距離を縮めようとしてはダメだ。

あくまでさりげなく,気づいたら傍にいるのが当たり前になるまで,一定の距離を保ち,あたかも興味がないような素振りで……

なんかデジャヴだなと思ったら,これって恋愛だわ。

2017年9月25日月曜日

9.24 休日。

予定を入れないと決めた休日は大概,図書館へ行って本を5冊借りる。

ポール・オースターから向田邦子,湊かなえまで。

徒然に借りる。

中途半端な冊数借りると,何冊借りたか忘れるから必ず5冊。

そして喫茶店でコーヒーを飲みながら読む。

今日もすてきな喫茶店を発掘した。

節制中なのでケーキはがまん。

よい休日だった。

来週からまたがんばります。

2017年9月24日日曜日

9.23 適量が,分からない。

糖質の,摂りすぎ,制限,

小麦粉の,摂りすぎ,制限,

乳製品の,摂りすぎ,制限,

あれやこれやの,摂りすぎ,制限……


んなら一体どんくらいが適量なん?

という話に今日なった。

わたしは毎日一個ケーキを食べていますが……

やっぱりこれは,摂りすぎ,なんだろうか。なんだろうな。

おそらく最近そのせいで冷えが酷い。お腹にカイロが必須。

砂糖はてきめん身体を冷やす。

今日もらった外郎(二本)食べたら摂生するぞ。



2017年9月22日金曜日

9.22 気合いを注入~。的な。

気圧が不安定。な,気がする。

わたしは気圧の変動に弱い。多分。

特に前日の天気がよければよいほど,翌日崩れた時にくる。ように思う。

ちょっと調べてみたら,三半規管の弱い人は気圧の変化に弱い。らしい。

ふだんの生活の中で三半規管の強度を気にしたことはないが,確かに乗り物酔いするし,やっぱりちょっと,三半規管というやつが弱い。のかもしれない。

この手の不調は原因はぼんやりしてるし,横になってよくなるものでもないので,どうしたものかムズムズする。ような。

とりあえず,コーヒーと甘いもので己を懐柔し,乗り切る。のか?

とまあこんな日は,文章にもキレがない。方向。

9.21 風もないのにぶらぶらさせたい。

丹田。

お臍と腰椎3番と肛門を結ぶ3角形の中心部分……と言われてもポカーンだが,ざっくり言うと,お臍から指三本分下,その奥にあると言われている。

丹田の大切さは,演者として表に立つ人間だったら誰でも一度は耳にしたり,感じたことがあると思うし,演者ではなくたって丹田はとても大切。

丹田は,その人の存在感や,いわゆるオーラにも大きく影響する。だから「あたい……じぶんを変えたい!」という人は,整形するより丹田を鍛えた方がいい。

近ごろ会う人によく,「最近じぶんの中で演劇が武道化してきた」という話をしているのだが,わたしはいま,努めて丹田を鍛えている。

とりあえず毎日,鈴木メソッド(鈴木忠さんという演出家の方が考案された身体訓練方法)と,スクワット。

広くない台所で,ハッ!とかフッ!とかやっている。やかんとか鍋の横でやっている。

そのうちわたしの丹田は,ぶっとくでっかく立派になって,風もないのにぶーらぶらしだす予定だ。

2017年9月21日木曜日

9.20 1ヶ月書き続けていま思っていること。

この1ヶ月,毎日blogを更新した。してみた。


家から一歩も出ない日でも,何か書こうと思えば意外と書けるものだし,書こうとすることで深く考えたり整理できた事がらもあった。


わたしは昔から「文章を書くことが得意な人」と思われている。

子どもの頃からそうだった。作文は必ず学校代表に選ばれ,コンクールで賞を獲った。ほんとに。獲れなかった事はないと思う。


しかしそれは文章を書くことが巧いからではない。


何をどう書けば賞を獲れるか知っていたからだ。


わたしは感性豊かな才能ある子どもではなく,大人を見くびった小賢しい子どもだったのだ。


わたしは文章を書くことが巧いわけじゃない。才能があるわけでもない。ただ,賞を獲れる作文の書き方を知ってるだけ。
自分が一番よく分かっていた。
でも書き続けた。誉められるから。


それが自分にとって悪かったとは思わないし,後悔しているわけでもない。文章は書けば必ず上達する。子どもから現在にかけ書かせて頂いた,数えきれないほどの文章は,ひとつの例外なく,わたしの有り難い財産だ。


だけどわたしは,子ども時分のコンクール荒らしの経験で,“誰か”に合わせて文章を書くクセをつけてしまった。そしてその“クセ”は文章を書くことだけでなく,わたしという人格にまで影響を及ぼして(人格とその“クセ”,どちらが先なのか分からないけど)それによってずいぶん長いこと,もがき続けてきたように思う。


色々な呪いをかけられてみんな大人になる。
みんなその呪いをどうしてるんだろう。
戦うのか,諦めるのか,開き直るのか。
呪いとの接し方こそ,生きる姿勢そのものなのだと思う。
なにが良いとか悪いとかではなく。
正解,不正解とかでもなく。


とりあえずわたしは当面,
美味しいと,きれいと,楽しいは正義。
をモットーに,暮らしてゆきたいと思う。
誰に合わせるでもなく。
美味しいものを食べ,きれいなものに心を傾け,いまを楽しく。


以上がblogを1ヶ月毎日書き続けて,いま思っていることです。長くなってしまった……

また,しばらく書き続けます。
読んでくださっている方,ほんとにありがとうございます。

2017年9月20日水曜日

9.19 そんな秘密はいかんでしょう。

「愛してたって、秘密はある」の“本当の完結編”が,有料動画サイトのHuluで公開されるという事に対し,「なんやそれ!」という声がかなりあがっているらしい。

かく言うわたしもその一人だ。

日本テレビは,“本当の完結編”という表現が誤解を招いたが,物語はすでにTV放送で完結しており,Huluで配信されるのは主人公のその後を描いた“番外編”であると釈明したらしいが,「番外編?ああ,それならまあよろしいわ」という心境には,どうしてもなれない。

タイトル通り“秘密”をウリにしたドラマだから余計にまずかったのだろう。
「ホントの秘密はお金払わないと教えてあげないよ」
と,視聴者には聞こえてしまったんだと思う。

日本テレビの釈明通り,本当に,単なる後日談,ということなのかもしれない。
だとしたら尚更“本当の完結編”はまずいだろう。
何かそこに新たな秘密があるかのように,匂わせてしまっているもの。

楽しみにしていたドラマだっただけに,最後の最後で残念。だ。

2017年9月19日火曜日

9.18 おしよせておる。

今日は,

感動と,

挑戦と,

わくわくと,

ひとかけらの不安が,

忙しなく飛び交い続けた1日だった。

つまりのところ,

ワークショップのあれこれを段取り,

三鷹で風琴工房『アンネの日』を観劇し,

身体の景色『ハムレットマシーン』の読み合わせに参加し,

ずっとやってみたかったあることをやってみようと決めた。

言いたいことがたくさんありすぎるので,今日はなにも言いません。

ち   ん  モク

2017年9月17日日曜日

9.17 映画とジャンクフード。

今日は動物園でカワウソを見て,不忍池を眺めながらビールを飲む予定だったのだが,生憎の天気だったので映画の日と相成った。

この世界の片隅に

ムーンライト

ラ・ラ・ランド

沈黙-サイレンス-

ジャンクフードをむしゃむしゃやりながら,たまっていた見逃し映画を消化。

たまにはこんな日も。

それにしても,どうして映画を観ようと思うと,同時にジャンクフードが食べたくなるのか。

では最後にこれより,たかが世界の終わり,を観て本日の締め括りとします。

9.16 喫茶店探訪~珈琲ピース編

来月のワークショップの打ち合わせで,久々に新宿へ赴く。

「西口の近くに喫茶店あったよね。ホープだっけ?」

惜しい,ピースでした。

まあホープもピースも同じようなもんさね。

ドアを開けたとたんの,タバコのにおいがなぜか懐かしい。

レジにはお勘定係りの無愛想なマダム。

土曜の午後3時の新宿,しかも駅の目の前なのに,席にはじゅうぶん余裕がある。

仲間探しの旅に出るはなむけに,ホットケーキを注文する。

シンプルで,ふつうの,だけどふわふわで,ちゃんと美味しいホットケーキ。

なんとなく,丸ぁるい気持ちになる。

地に足つけて,志は高く,丁寧に,感謝を忘れず,じぶんなりにやろう。

ピース。

珈琲ピース
http://www.h3.dion.ne.jp/~co.peace/

2017年9月15日金曜日

9.15 いま,ちびっています。

来年参加させて頂く舞台の第二稿を頂戴した。

来週読み合わせで,まだ自分の役が決定したわけではないが(多分),読み合わせに際して頂いたお役に,いま,正直ちびっている。

とんでもないお役を頂いてしまった気がする。

常々,

「台詞なんて最低限でいい。究極には無くていい。演者の身体と呼吸だけで凡て伝わる表現をおいらは目指すのだ」

などと偉そうに宣っていたが,実際それに挑むとなると,ちびる。

果たしてこれは,ようやく目指す表現に挑めるうれションなのか,それとも,じぶんの木偶の坊ぶりをさらけ出すことにびびっているのか。

しかし,わたしにとってまたとない重要な機会,そして挑むべくして与えられた運命的な機会だということはまちがいない。

ちびっているが,おいらはやるぞ。押忍。

9.14 ヒゲを生やして山を登る。

劇作家の某氏と「執筆作業をどこでやるか」という話になった。
そう言われれば,だいたいいつも,ある一定のパターンがある。


第一段階:アイディア出し

静かで落ち着いている喫茶店。
テーブルが広く,隣の席との間にある程度余裕があるのが望ましい。
コーヒー一杯の値段は高め。
席料と思い割り切るが,この段階が長引くと,財布にそこそこのダメージを食らう。イメージ:チェーン系高級喫茶店。椿屋珈琲店など。


第二段階:作業前半

そこそこ雑音のあるセルフサービス系のカフェ。
テーブルは狭くても構わないが,コンセントがあると安心。
コーヒーの値段はまちまちだが,一番安いブレンドを頼めば300円ほど。
軽食やちょっとした甘いものも気軽にとれる。
イメージ:スタバ,ドトール,エクセルシオール,ベローチェなど。


第三段階:作業後半

気兼ねなく長居できる場所。
深夜まで開いているファストフード店,もしくはファミレス。
その気になれば食事もとれる。
コーヒー一杯,もしくはドリンクバーでやり過ごすことができればこんなに安上がりなことはないが,「自分へのご褒美」というマジックワードに財布のヒモが弛みがち。
イメージ:マクドナルド,モスバーガー,デニーズ,サイゼリヤなど。


第四段階:締め切り三日前以降

家。
トイレと冷蔵庫への数歩が唯一の気分転換。
自分を熟睡させないため床で寝る。
納豆ご飯で生命維持。
頭に血が上るからか,頭皮から脂が分泌され髪の毛べたべた,地肌が痒くなる。
ヒゲが生える。


最近でこそ,自宅が一番落ち着くという事もあり,外で作業することはめっきり減ったが,それでもその時々で,はかどる場所や状況がまちまちであることは確かだ。

とりあえず,執筆が佳境になるとヒゲが生えてくるということだけは変わらない。
できるだけ気をつけたいが,ヒゲが生える代わりにいいものが書けるなら,迷わずボーボーになる覚悟で今後も臨みたい。

2017年9月14日木曜日

9.13 ほんとの自分らしきもの。

体調がいまいちだったり,疲れているときのほうが,ほんとの自分らしきものなんだろうな。

そこでどのような顔,振舞いをしているのか。

隠す余裕がないぶん,ほんとうの姿が現れる。

人だって同じ。

どうしようもない時,そばにいてくれたのは誰か,見捨てずにいてくれたのは誰か。

悪いときの方が,まことのことがわかりますね。

人の一生捨てるとこなし。

明日も美味しくいただきます。

2017年9月13日水曜日

9.12 喫茶店探訪~神楽坂トンボロ編

カウンターと2卓のテーブル席。

店内は年期が入っているけれど,古い喫茶店にありがちな古さに対する諦めみたいなものがなくて,古さを受け入れつつも,いまここにちゃんと在る感じ。

清々しく,初めてなのに懐かしい店内には独特の時間が流れ,カフェオレのカップはとっくに空になっているのに,何時間でもぼんやりしていられるような気分になる。

午後になると店内は少し混み始め,わたしの座っていたテーブルの隣に,初老のおじさま二人が座った。

ブルガリアマフィア

国家的人身売買

ビルマの民族浄化


おじさま方の口から世界がこぼれた。

そういえばこの喫茶店も,世界の一部であるのだな。

この喫茶店の清らかな空気がブルガリアのそれと繋がっていることを思いながら,空のコーヒーカップを何度目かにすすった。


トンボロ
住所:東京都新宿区神楽坂6丁目16
電話:03-3267-4538

2017年9月12日火曜日

9.11 止まるという進み方。

今年の3月に出演した「生と性をめぐるささやかな冒険」の写真もろた。

おいらとても楽しそう。

すてきな出逢いに背中を押され,また始められそうです。

停滞していると感じても,それはきっとそういう進み方なのだな。

不器用なじぶんの速度を受け止めて,明日もまた一歩。

2017年9月11日月曜日

9.10 朝ごはんが食べたい。

「学校に遅刻しても朝飯は食え」という教育方針のもと育った。

実家にいた18年間,朝ごはんを抜いたことは1日もない。

結果,遅刻はしまくったが,「朝ごはんを食べる日常」という一生の宝を得ることができた。親には感謝である。

なので今でも,朝ごはんを食べないと,どれだけ昼にしっかり食べても,なんとなく力が出ず,頭もぼやっとする。

基本,米と味噌汁。

忙しい時期はパンやシリアルで済ませることもあるけれど,朝に炊きたての米を食べる喜びは何事にも勝る。

今夜は朝ごはん用にイクラを仕込んだ。
明日はいい日決定。

2017年9月9日土曜日

9.9 自律神経接待中。

昨日,胃痛でパジャマが取り出せず稽古着で寝たら,何かのスイッチが入ってしまったらしく,眠りたいのにミョーにそわそわしてしまった。

「これ(稽古着)着たらテンション上げな」
と,体が覚えてしまっているようだ。
体は持ち主より賢い。

そんな特性を利用して,稽古着でデスクワークをしてみた。

わたしは30分以上じっとしていられない病気なので,じっとするのに疲れたら,そのままストレッチやらヨガやらできるのがとてもよい。何より楽だし。しばらくこれでいこう。

胃痛は昨日よりマシではあるが,まだ患部がもやもやしている。

「季節の変わり目だし自律神経の乱れでは」というご指摘を頂いた。
確かにこのところ,特にストレスフルなことは思い浮かばないのに,胃腸の調子が良くない。

当面宵っ張りを改め,しっかりご飯を頂戴し,ベッドにスマホを持ち込まず,ゆっくり湯船で体を温めて寝るなど,自律神経接待に努めたい。

5月も“五月病”なんて言葉があるように,色々揺らぎやすい季節だが,気持ちのよい季節は,厳しい季節を乗り越えた疲れが出やすいのだろう。

ご自愛,ご自愛。

というわけで,秋っぽい一枚をば。
金髪時代懐かしいな。

9.8 メダカ帝国の愛と危機。

久しぶりに胃が痛い。

珍しくカップヌードルなんて食べたからだろうか。横になっていると若干痛みは和らぐが,起きるとダメだ。

ヨロヨロと「く」の字になりながら,とりあえず顔と足を洗い,パジャマを出す余力がなかったので,そこら辺にあった稽古着を着た。

起き上がれないので,ゴロゴロしながら実家で撮影したメダカグラビアを鑑賞する。

この夏,実家ではメダカの繁殖に挑み,6月にわたしが帰省した際は念願の一匹目が誕生,我が老親より「初孫ちゃん」という重すぎる名前をつけられ,元気にぴょんぴょん泳いでいたが,なかなか弟妹に恵まれず,彼(彼女)は稚魚用に設けられた新しい水槽に,長く独りぼっちだった。

ところが先月帰省した際,メダカ一族は増えに増えていた。

なかなか孵らない卵にやきもきし,「初孫ちゃん」に目尻を下げていた老親の間にも「もういいよ」というムードが充満,言うまでもなく件の「初孫ちゃん」がどれなのかも判別がつかなくなっていた。

ところが,このまま栄華を極めるかに思えたメダカ帝国に思わぬ危機が訪れる。

水槽のひとつがカマキリに襲撃されたのだ。

老親曰く,ちっさいカマキリが,自分の体と同じ位の大きさのメダカをくわえていたという。

その水槽にいたメダカたちは重いPTSDを患い,人影に怯え,ホテイ草の影から出てこれず,ご飯も食べられなくなってしまった。

まさにメダカ界における進撃の巨人的状況,ウォールマリア陥落の危機である。

しかし,彼らが発奮し,「心臓を捧げよ!」と,カマキリを駆逐する為,塀(水槽)の外へ出ていくことはまずないと思われるので,わたしとしては,彼らの心の傷が一刻も早く(飢え死にする前に)癒えることを祈るばかりであり,どうか寒い冬を乗り越えて,来年また,卵をいっぱい産んで頂きたい。

メダカのこと考えてたらちょっと元気になってきた。


2017年9月8日金曜日

9.7 演劇を続ける理由。

某女史と「何だかんだいって,まだ演劇を続けていられることが奇跡だ」という話になった。

某女史は,演劇系の学校を卒業した後,一度就職したが,ひょんな事から小劇場の舞台に立ち,再びこの世界に戻ってきた。

女史曰く,その芝居自体は“糞みたい”だったとの事だが,観に来てくれた先輩から「演劇の神様に呼ばれたんだね」と言われたそうだ。

女史は今も,その先輩の一言が,強く心に焼きついているという。

わたしも昔,お世話になった映画監督の方から言われたことがある。

「自分の意思とは関係なく,やりたくてもできない時が来る。できるってことは,神様がやれって言ってるんだよ」

わたしが折に触れ,思い出す言葉だ。

なぜ今も演劇を続けているのか,という問いに一言で答えることはとても難しい。

好きだから。だけではもはや済まない。
因縁,もしくは人生をかけた実験。

わたしはまだ当分演劇をやっていくのだろうと思う。出来る限り。神様がやんなよとおっしゃる限り。

ただ,以前演技講師をしていた時,巣立ってゆく教え子たちに伝えていたことだけは,自分でも決して忘れまいと思うのだ。

「あなた方の人生の目的は,演技を続けることではありません。
幸せになることです。
どうか幸せになってください」





2017年9月7日木曜日

9.6 大人は子どもよりすばらしい。

沼田まほかるさんの本を,最近よく読む。

「彼女がその名前を知らない鳥たち」から始まって「ユリゴコロ」「九月が永遠に続けば」を最近読了した。

沼田まほかるさんは,若くして主婦となり,僧侶や会社経営などを経て,56歳で作家デビューされた。

作家になるまでに,離婚や経営していた会社の倒産なども経験されたそうだ。

きっと,わたしなどが窺い知れぬ様々な経験をされ,あらゆる感情を抱いて来られたのだと思う。

“若いみずみずしい感性”という言葉がある。

否定はしない。
特に子どもの発想なんかには驚かされる事が多い。

しかし,だ。

じぶん自身を鑑みても,新しい経験を積む度知らなかった感情に出会うし,確かに十代後半の,箸が転がっても腹が立つみたいな荒ぶりはなくなったけれども,昔より色々な事が感じられるようになった分,感性の水分保有量は増している気がする。

歳を取れば感受性は豊かになる。
理屈で言えば,そうだと思う。

ただ,豊かになる分傷つきやすくなる。

それなのに,大人と分類されるようになれば,広い場所に出ていかざるを得ない。
守られる立場から,守らないといけない立場になる。
だから,自分を守るために感性を堅くする。

傷つかないように。

大人なんて,がんばって大人のふりしてるだけで,子どもの方がよっぽど強くて時に残酷なような気が,わたしはする。

“自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ”

茨木のり子さんの有名すぎる詩の一節。

常に変わり続ける勇気と,くだらんプライドを持たない努力。を,わたしは心がけたい。

大人は子どもよりも,ずっとすばらしいはず。

じゃないと,なんで生き続けるのかよく分からんですもん。

2017年9月6日水曜日

9.5 世の男性に告ぐ。

世の生殖可能年齢にある女性の多くは,月に一回死にたくなります。

冗談でもなく大袈裟でもなく死にたくなります。

原因はありますが理由はありません。

そこのところ,どうぞ宜しくお願いします。

2017年9月5日火曜日

9.4 わたしの知らないわたしの友だち。

今日は大好きな人にたくさん会えた。

気付けば知り合って十年以上が経つ大学時代の友人から,今年の3月に知り合った新しい友人まで。

大学時代の友人は頻繁に会うわけではないけれど,事あるごとに「どうしてるかなあ」と思っている。ものすごく久しぶりに会っても,昨日も会ったような気がする,そんな存在。

新しい友人は,知り合ってからの時間は短いのに,何となく「話せる」「分かる」感じがある。一緒にいて楽だしわくわくする。ここから新しい何かが始まるような予感のある関係。

どちらも素敵で奇跡的な事だと思う。

10歳ぐらいの頃,
「わたしがいつか結婚するのは,このクラスの男子ではなく,世界のどこかにいる今現在全く知らない男の人なのだ(その可能性が非常に高いのだ)」
という事に気づいて,吐き気がする程気分が悪くなり,その事に絶望を覚えた記憶がある。

自分がいま見えている世界の向こうにも果てしなく世界が広がっている事,そこに名前も顔も知らない無数の人間がいるという事が,子どものわたしにはとても恐ろしい事に思えた。

あれから24年経ち,あの頃のわたしから見たら随分遠いところに来たなと思う。
全くそんな感じはしないけれど。

10歳のわたしよ,
今わたしの周りにはあなたが知ってる人はほぼいないけど,
素敵な人たちと楽しくやってるよ。
安心しなさい。

今から24年後は58歳。
その頃はどうなっているのだろう。

続くものは続くし,途絶えるものは途絶える。
良くも悪くもなく。
今のご縁を大切にしよう。

写真は今日観劇したホエイ「小竹物語」出演のはなちゃん(和田華子ちゃん)と。
はなちゃんとも久しぶりに会えてうれしかったので記念撮影。
はなちゃんの顔が小さすぎる。
わたしが3メートルぐらい下がって撮るべきだった。




2017年9月4日月曜日

9.3 だらだら自己嫌悪地獄なう。

忙しなかった7,8月が終わり,気が抜けたのか,最近だらだら気味だ。

わたしは根がクソ真面目なので,だらだらしてるとそんな自分がイヤになり,自己嫌悪に陥って体調が悪くなり,それ故更にだらだらすることになり,そしてそれがイヤになって更に自己嫌悪に……という魔の無限ループにしばしば突入する。

こうなったら自分のことながら手がつけられない。気がすむまで“だらだら自己嫌悪地獄”を味わうしかない。

しかし人間になって30年過ぎれば,何となく自分との付き合い方も分かってくるもので,昔は「あああああたしはなんてだめなんだああああ」と,のたうち回りながらだらだらしてたのが,いまでは「止まない雨はないよのぅ」と,遠い目をしながらYouTubeでも眺めてだらだらできるようになった。

“どんなしんどい時期も一生は続かない”
大人になって一番よかったのは,それが分かったことかもしれない。

サバンナに雨季と乾期があるように,わたしにもシャキシャキ期とだらだら期がある。大自然の営みの一部と思えばいい。

あと,仕事の性質上,無理しなきゃならない時は相当無理しなきゃならないので,いまは来るべき「無理」に向けてエネルギーをチャージする時なのだ。

心して,だらだらすべし。



2017年9月2日土曜日

9.2 Hello Again の法則。

常々,「女というものは~」「やっぱり男って~」という話の切り口には慎重でありたいと思っているが,それでも「女というものは~」「やっぱり男って~」と言いたくなる時がある。

“人は女に生まれるのではない,女になるのだ”

というのは,ボーヴォワール先輩のあまりに有名すぎるお言葉だが,それってつまりはどういう事なのか。

話は少し逸れまして。

わたしが中学生の頃,My Little Loverの「Hello Again ~昔からある場所~」という曲が流行った。

クラスメイトが「Helli Again超イイ~」と言う中,わたしは当時,その良さが全っ然分からなかった。
それよりも,影山ヒロノブの「スターダストボーイズ」(『宇宙船サジタリウス』の主題歌。作詞:阿久悠,作曲:鈴木キサブロー)の方が全然よくね?と思っていた。

しかし,わたしはそれを誰にも言えなかった。

「わかるぅ~Hello Again超イイ~」とクラスメイトに話を合わせ,Hello Againを聴き,覚え,カラオケで歌った。

あんなに聴きまくっていた「スターダストボーイズ」は,いつの間には聴かなくなっていた。

そしてあれから20年が経ち,Helli Againを聴くと「Hello Again 超イイ~」と,本当に思っている自分がいる。

人間が「男になる」「女になる」ということは,それに似ている気がする。

「Hello Againがイイと言わないと,話についていけない」
「みんながあれほどイイと言っているHello Againがイイと思えないわたしは,ちょっとおかしいんじゃなかろうか」
「スターダストボーイズが好きなんて言ったら変なやつだと思われるかもしれない」

そんな事を思ううち,いつのまにか本当に「Hello Again」が良い曲だと思うように,わたしはなった。

別にいいんだけど。
実際今は本当によい曲だと思ってるから。
だけどわたしは,「スターダストボーイズ」が好きだった自分のことも,忘れたくない。

そして,全然「Hello Again」が好きじゃなかった自分の事も。

わたしは,生まれた時に女なるものと認識され,それ故に女として育った。

いま幸せだ。
女であることに異論はない。

しかし,

女になるためにやってきた少なからずの事を,
男ではなかったために予め失われた幾つかの事を,

絶対に忘れずにいようと思うし,

女か男,どちらかでなければならないために,恐らくこれからも続く葛藤を,

これからも大切に抱えてゆきたいと思う。

9.1 時間に血が通うとき。

ご縁を頂き,久しぶりに演技講師をやっている。

もちろん毎回,精一杯やらせて頂くわけだが,どうしても,「今日はよかったなァ」と帰りに一杯ひっかけたくなる日があれば,「今日はイマイチだった」と帰りに一杯ひっかけたくなる日もある。

何でだろうと考えた。

もちろん,万全を期しているとはいえ,わたしも人間なので日によって体調やテンションは微妙に違うし,レッスンを受ける方もそうだろう。
それにレッスンは講師(わたし)が一方的に何かを伝えるものではなく,参加者と対話しながら一緒に創る,つまり双方のコラボレーションで成り立つものだから,その充実度合いは非常に微妙なバランスの元成り立っているといえる。

ただ,完全にわたしサイドの問題として,いまいち充実感に欠けたレッスンには必ず共通している事がある。

「相手(生徒)を,自分の方に引き寄せようとすると,だいたい上手くいかない」

こうなってほしい。
こう感じてくれたらいいな。
そうしたらもっとよくなるのに。

でもそれは,相手のためを思っているようで,本当は自分の欲求を満たそうとしているだけなんだよなぁ。

逆に,相手を信頼してコントロールを手放した時,失敗は発見に変わるし,お互いの時間に血が通う。

それがつまり,充実,ということなんだと思う。

教えているかと思いきや,教えられることばかり。
精進,精進。